【方広寺鐘銘事件】「国家安泰」「君臣豊楽」は完全な言いがかり!

ieyasu

方広寺鐘銘事件は言いがかり!

慶長5年(1600年)における関ヶ原の戦いは石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍の合戦でした。

 

 

天下分け目の戦いといわれたこの関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍が勝利を収めましたが、当時の時代の人たちからすれば、あくまでもこの戦いは徳川家康と石田三成の個人的な合戦であり、世間が認める天下人には徳川家康はなれていなかったのが実情だったのではないかと考えられています。

 

 

この状況を徳川家康は快く思うはずもなく、世間からも天下人として名実ともに認められるためには、豊臣家を完全に滅ぼすことを常に考えていたんですね。

 

 

そこで、徳川家康は方広寺鐘銘事件を意図的に起こし、豊臣家の滅亡を画策します。

 

 

方広寺鐘銘事件は「国家安泰」「君臣豊楽」を無理やり曲げた事件

方広寺鐘銘事件は慶長19年(1614年)に起こります。

 

 

方広寺は秀吉が建てたもので、刀狩りをして没収した武器を再利用という形で使い、大仏を安置していました。

 

 

ですが、大地震によって方広寺は糖かいしてしまったために、家康がと秀吉の息子の秀頼に再度建築しなおすように話を勧めました。

(家康はこの方広寺の再建をすることで、豊臣家が持っている莫大な資産を使わせ、以前力を持っていた豊臣家の資産を削り取りたかった、という狙いがあったようですね。)

 

 

大地震によって崩壊した方広寺の再建は、家康の勧めもあってちゃくちゃくと完成間近までいった時に事件は起こります。

 

 

いくつかあった鐘銘のうち、「国家安泰」「君臣豊楽」の文字は家康を呪うものだという言いがかりをつけたのです。

 

 

「国家安泰」は家康の名を分けることで呪ったも。
「君臣豊楽」は豊臣家が君となって楽しむもの。

 

 

という解釈をして家康は秀頼を必要以上に責めました。

 

 

そして、家康は、この問題を許してほしいならば、

 

①秀頼を江戸に参勤させて秀忠(家康の息子であり、征夷大将軍)に臣従すること
②秀頼の生母・淀殿を人質として江戸に来させる
③大阪城を放棄して家康の指定する領地へ国替え

 

 

という無茶な条件を秀頼に提示しました。

 

 

しかし、当然このような条件を飲めるはずもなく、秀頼はついに家康に対して戦の準備に入ることになりました。

 

 

これが方広寺鐘銘事件です。

 

 

方広寺鐘銘事件とは、言うならば家康が最初から秀頼と戦うための口実づくりだった、というわけですね。

 

 

家康はこの無理こじつけた言いがかりで何をしたかったのかといえば、秀頼を完全に臣従(しんじゅう)させたかっただけ。

 

 

関ヶ原の戦いで石田三成率い利西軍、つまり豊臣側は負けはしたものの、家康は秀吉との約束を次々に破っていたため、もともと豊臣家に恩顧あがった(恩を感じていた)大名からは良くは思われていせんでした。

 

 

これは言い換えれば、まだ豊臣家の影響力が全国に残っていたということです。

 

 

その影響力を恐れた家康は、とにかく完全に秀頼が自分に従うように仕向けたかったがために、

スポンサードリンク

コメントを残す

サブコンテンツ

このページの先頭へ